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成巽閣のあらまし

前田家と成巽閣
 前田家は尾張荒子を居とし、戦国の世を織田信長に仕えた前田利家、その正室まつにより生き抜いてきました。やがて嫡男利長には織田信長四女、永、次男利政には蒲生氏郷の女、藉を迎える事となり織田家家中の重要な位置を得て行く事となりました。然しながら本能寺の変による信長の死に時代は大きく変転し、織田家は解体、豊臣家、徳川家が順に時代を切り開き受継いで行きます。これらの動乱、収拾の過程であまたの名門・名家が歴史上から姿を消して行きました。それでも島津・細川・毛利・浅野・伊達・黒田・鍋島・池田・上杉などの諸大名はその勢力を変じながらも家名を守りました。そうした中で前田家の石高は百二十万石を数え、その財力は異例なものでしたが前田家三代の利常はこれを文化、工芸の育成に費やしました。利常四女富姫は八条宮智忠親王の妃となり、やがて桂離宮の造営に前田家も深く関わる事となります。義兄弟の関係にあった後水尾天皇や京都町衆(本阿弥光悦・五十嵐道甫・俵屋宗達・千宗室・金森宗和など)との交流もさらに深まり今日に残る加賀百万石の文化、美術工芸品は全てここに端を発しているといえるでしょう。四代光高の室には水戸光圀の姉にあたる大姫を迎え、幼少の五代綱紀には名君の誉れ高い会津の保科正之を後見としさらに、その娘摩須姫を室に迎え政治的安定を図ったのでした。
 前田家の御殿には御細工所と呼ばれる工房が造られ、幕末まで維持されました。
 御細工所は元来、武具の修理が大きな任務であったのですが転じて城中のさまざまな調度、什器に携わる職人工房となっていきました。最大二十四職種、七十余人を有した組織は紙細工・針細工・漆細工・絵細工・蒔絵細工・象嵌細工・金具細工・茜染細工など極めて広い範囲で京都町衆との交流で培った高い水準がさらに深化し受継がれて行きました。
 五代綱紀の治世は長く「加賀は天下の書府」と新井白石に言わしめるまでの文化工芸の隆盛を見る事となりました。時代が下り文政五年(1822)十二代齊廣は現在の兼六園の中央に約四千坪の竹沢御殿を造りました。御細工所の全ての職人がここぞとばかりに腕を奮った事は言うまでもありません。書院から眺める景色をもって楽翁、松平定信が「兼六園」としたのは実にこの時でした。
  文久3年(1863)、奥方のため兼六園に建てられた建物は巽御殿と呼ばれました。金沢城から見て巽の方角(東南)にある事、京都の鷹司家が辰巳殿と呼ばれていた事にちなんでこうした名前が付けられたのでした。十二代奥方、隆子(眞龍院)は折に触れ、縁側を下りてお庭である兼六園を楽しまれた事でしょう。 前田家十三代齊泰は母君にあたる十二代奥方に対して細やかな心配りに満ちた優しく雅な空間を造り上げました。十二代齊廣の遺した竹沢御殿の善美な部分(謁見の間・鮎の廊下)を移築し、西洋からの素材(ギヤマン・高価な顔料)も融合した色彩豊かな住まいで十二代奥方、隆子(眞龍院)は晩年を過ごしたのでした。十三代齊泰は同時に竹沢御殿の跡地を整備し曲水、植栽を加え霞ヶ池を広げて今日ある廻遊式庭園にしたのでした。
 明治三年隆子が巽御殿で生涯を終え、所轄は国、県、前田家と推移し歴代の天皇、宮様をお迎えする役目も果たして参りました。昭和13年に旧国宝、昭和25年に重要文化財に指定され、財団法人成巽閣として運営されて参りましたが、この平成24年に公益法人として認定され、現在は公益財団法人成巽閣となりました。







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